寺宝

当山では歴史的にも重要な数々のものが寺宝として伝わっています。
その中のほんの一部をご紹介いたします。

後陽成天皇宸翰 「仮名文字遣」(重文) 慶長2年(1597)

和歌や故実に秀でた後陽成天皇(1571-1617)の真筆です。
同書は日本古来の様々な言葉の正確な仮名遣いを記した本として知られていますが、
本書は連歌師里村紹巴が校訂した本を、学識に優れた公家として著名な三条西公条が書写し、
さらに後陽成天皇が書き写したもので、伝統的な言葉遣いに対する
天皇の関心を窺うことができます。

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「仮名文字遣」

「仮名文字遣」

「仮名文字遣」

「仮名文字遣」

後水尾天皇宸翰 「忍」 江戸時代前期

仏教に帰依深く、学芸に造詣が深く能筆家で知られた後水尾天皇の「忍」の一大字です。
後水尾天皇の筆跡をよく示す墨跡として珍重されています。
実相院第17世義尊門主の母、法誓院三位局は後陽成天皇との間に聖護院門主道晃親王をもうけているため、
後水尾天皇とは兄弟のような関係にありました。 実相院へは度々訪れていたようです。

明正天皇 「三十六歌仙」

後水尾天皇の第二皇女で、徳川秀忠の娘和子(東福門院)を母に持つ、七歳で女帝となった明正天皇の書かれた三十六歌仙。
三十六歌仙は藤原公任が和歌に秀でた万葉歌人三人に平安歌人三十三人を選んだものです。
和子は徳川の血を皇統に継がせるべく家康により送り込まれましたが、二男三女をもうけながら、なぜか皇子がいずれも早逝しました。
そのような中、興子(おきこ)内親王が寛永六年七歳で天皇になりました。
諸芸に秀で、特に手芸を好み、押し絵細工などがゆかりの寺院に残されています。

霊元天皇行幸記 上下  天明5年(1785)

後水尾天皇の皇子である霊元天皇が、享保6年から16年(1721-1731)にかけ、
修学院離宮や加茂・岩倉・高野などの洛北各地に行幸した際の記録を、当時の関係者が天明5年に修学院離宮で書写したものです。

岸駒 石灯籠 「寒山拾得の図」 文政年間

義尊大僧正の実母で、後陽成天皇の中宮、法誓院三位局が創建された
證光寺に90歳で天寿をまっとうするまで隠棲していた、石川県生まれの岸駒(がんく)によるもの。
岸駒は岸派の始祖で、円山応拳や谷文晁と競い合った画家で、虎を描かせれば当代一といわれた人物。
この石灯籠は今、中庭に置かれています。

実相院日記

歴代門主や坊官が綴った、260年間にも及ぶ門外不出の日記。
最も古い記録は明暦元年(1655)~寛文9年(1669)までを一冊に書き綴ったもので、
正徳6年(1716)からはほぼ毎年一冊づつあり、明治期まで続きます。
なかでも動乱期の幕末期は、実相院が宮家に近い門跡寺院であり、徳川家ともゆかりが深かったため、
双方から様々な貴重な情報がよせられ、内容は実に豊かで、資料価値が高いといわれています。
将軍家の動向から、巷の俗塵の噂まであらゆるものを写し取り、聞き集めています。

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実相院日記

実相院日記

実相院日記

実相院日記

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